中標津町のムツ牧場で体験する馬と人間の絆

北海道東部の広大な平原に位置する中標津町。摩周湖と知床半島に近く、酪農業と共に栄えてきた自然豊かな町です。ここに「ムツ牧場」があります。2023年4月5日に亡くなった、ムツゴロウこと畑正憲さんが追い求めた夢は、シンプルながら力強いもの。「千頭の馬が草原を疾走し、その背には子どもたちが乗っている。それが私のビジョンです」。
1970年代から北海道で進められた動物との共棲プロジェクトから生まれたムツ牧場は、今も18頭の馬がのびのびと暮らし、訪問者に忘れられない乗馬体験をもたらしています。
ムツゴロウとは——動物学者から動物好きの象徴へ
1935年に福岡で生まれた畑正憲さんは、東京大学理学部で動物学を専攻しました。その後、科学教育映画制作会社に勤務しながら、1960年代から「ムツゴロウ」というペンネームで動物に関するエッセイや小説を発表し始めます。
転機は、北海道や世界各地での動物との生活を描いたテレビ番組への出演でした。ユーモアと温かさに満ちた人柄、そしてあらゆる動物に注がれる限りない愛情と大胆さは、多くの視聴者の心を掴みました。こうして、ムツゴロウさんは日本を代表する動物愛好家のアイコンとなり、その名は全国に広がっていったのです。
ムツゴロウさんの人生を貫く一つの信念があります。それは「動物と人間は友達である」という哲学。この思いは、彼の全ての活動の根底にあり、やがてムツ牧場へと受け継がれていくことになります。
ムツゴロウのビジョン—馬と子どもたちが紡ぐ物語
ムツゴロウさんが最も大切にしていたのは、馬と子どもたちの関係性でした。深い雪の中での乗馬体験についてムツゴロウさんに取材したライターは、80歳を過ぎても変わらぬ動物への愛情を感じたと述べています。
「動物たちは言葉を使わずに人間とコミュニケーションを取ることができます。それを実現するまでに50年を要しました」——ムツゴロウさんの言葉です。モンゴルの大平原での経験も興味深いエピソードです。1,200頭の馬による馬列の最後尾から何頭の馬を追い抜けるか、そうした挑戦を繰り返す中で、ムツゴロウさんは隊列乗馬の楽しさを知りました。当時を語るムツゴロウさんの瞳に映る少年のような輝きが、その魅力を物語ります。
「30頭から50頭の馬による隊列乗馬体験を子どもたちにさせたい」——これがムツゴロウさんの次の世代へ贈る夢でした。馬との直接的なふれあいを通じて、言葉を超えたコミュニケーション、生命との深い繋がりを子どもたちに体験させる。それが、ムツゴロウさんのビジョンでした。
ムツゴロウの哲学を継ぐ者たち
ムツ牧場で働く2人のスタッフの1人が、津山さんです。子ども時代にムツゴロウさんのエッセイに魅せられた津山さんは、やがて憧憬の念を抱いて遠く沖縄から北海道を訪れました。ムツゴロウさんと共に働きたいという若者は多く、全員を雇うことはできません。あまり期待していなかった津山さんでしたが、その誠実な人柄が認められ、以来38年間にわたってムツゴロウさんと共に歩んできたのです。
「ムツさんがやりたかったことの1パーセントにも満たないことしか成し遂げていません。ですが、最近は褒めていただけるようになりました」という津山さんの言葉からは、ムツゴロウさんとの関係の深さ、そして牧場を継続する固い決意が伝わってきます。ムツゴロウさんから学んだ哲学と技術は、言葉では言い表せないほど深いものです。その知恵は、現在の馬の調教に活かされ、次世代へと確実に受け継がれています。
ムツ牧場の馬たちと体験する特別な乗馬
最盛期には120頭を数えたムツ牧場の馬は、現在18頭。今後30頭から40頭への増頭を目指し、子どもたちが一緒に楽しむ乗馬教室の開設が目標です。
かつてのプロジェクト時代、スタッフたちは子どもたちの学習速度に驚いていました。わずか1週間の乗馬教室でも、ほとんどの子どもが馬に乗って走ることができるようになるのです。子どもたちの吸収力の高さはもちろんですが、ムツ牧場の馬たちの性質も大きく関係しています。
この牧場には、馬をつなぎ止める厩舎がありません。そのため、馬たちは自由で開放的な性格に育つのです。これはムツゴロウさんの哲学の実践そのもの。馬も人間も、限定されない環境でこそ本来の能力を発揮できるということです。
ムツ牧場での乗馬体験は、他の施設では決して味わえません。牧場から馬を連れ出し、体を磨き、鞍を装着し、乗馬し、馬に食事を与え、鞍を取り外し、再び放牧するという一連のプロセス。その全てが、馬との関係を深めるためのステップなのです。馬の息遣いを感じ、馬の心を理解する体験——それがムツ牧場でしかできない学びです。
ムツゴロウの656—YouTubeで発信する動物の世界
新型コロナウイルスが世界を揺るがす中、ムツゴロウさんはYouTubeチャンネル「ムツゴロウの656」での動画配信を開始しました。地球上に生息する100万種の動物について話すことは、人生の一つの夢です。100万本の動画投稿は難しいとして、656本という目標を設定しました。この数字は「ムツ・ゴ・ロウ」の語呂合わせです。
動画では、各動物の特徴や動物学的な知見、そして世界での実体験が語られています。英語字幕も付いており、世界中の視聴者がムツゴロウさんの動物の世界を楽しめるようになっています。
馬と人間の距離が最も近い場所へ
動物学者にして作家のムツゴロウさんは、世界中を行き来し、動物たちの謎に取り組んできました。その愛情と哲学、そして大胆さは、今も次世代へ確実に受け継がれています。
中標津町のムツ牧場で過ごす時間——馬たちとふれあい、ムツゴロウさんの知恵と夢を肌で感じてみてください。動物と人間が友達であること、言葉を超えたコミュニケーションの美しさ、そして生命の尊さ。ここは、世界で最も馬と人間の距離が近い場所です。









